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lawollaの吐き出すコトノハ集め。Since→2007/04/06
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史実を元にしています。
 宝永7年5月22日(1710年6月18日)前後の壱岐国が舞台です。
 
歴史の改変や実在人物のキャラクター化などに嫌悪感を覚える方にはお勧めできません。
文化や言葉遣いは必ずしも再現されているわけではありません。

以上を踏まえて問題がないようでしたらどうぞお進みください。
ページ閲覧後の苦情はお受けいたしかねます。



= そらをみていた =
 
庄衛門さまはお江戸からやってきたお侍さまだ。簡素な身なりだけれど上品で、わたしは壱岐国の辺鄙なのを少し恥じた。庄衛門さまの瞳は覗き込んだ井戸そっくりで、風本の男たちにない深い知性が湛えられていた。お上の方だからかと思ったけれど、すぐに彼は一緒に来た他のお侍さまとも違うと分かった。それは、巡検使にしては歳をとりすぎているだとか、ここに来るまでに体調を崩されていたという郡司さまのお話通りの赤みに欠けた顔色だとか、そういうことからでもない不思議な根拠に満ちた感覚。
 丁寧な物腰で挨拶をした彼は、自分たちが九州のあちこちを回って来たこと、ここ可須村風本も色々と見聞して幕府に報せるが、気負わず普段通りに暮らしてほしいことを告げた。そして用意された屋敷を辞退して中藤さんの家に寝た。
 
 はじめは物珍しさに人が集まった。庄衛門さまは礼儀正しかった。ただ簡潔に質問にこたえながら、時折お茶菓子を口にするのだ。
 苦手なのか興味がないのか、庄衛門さまはあまり喋らなかった。加えてあまり気分が優れないようだった。だから野次馬はじきにいなくなって、わたしはその時はじめて庄衛門さまの微笑むのを見た。初夏の陽の中で、それは不思議なほどやさしく蕩けた。
 
「庄衛門さま。おはようございます」
 水汲みに行くとき、部屋の前を通るので中を覗いた。
「おはようございます。ああ、あなたでしたか」
 庄衛門さまが文机から顔を上げる。今日も深く鋭利だ。若さの盛りをすぎた彼の顔には僅かに皺が走り、ともすると攻撃的にも見える端正な顔をやわらげている。六十を過ぎているという驚くべき年齢は、彼の朝を早めたらしい。半乾きの墨が起きたばかりでないことを告げる。
「随分とお早い」
「お江戸から本ば来たとです。あとで写しにも行きます」
 風本は京から離れている。ましてお江戸は尚遠い。女に学問と馬鹿にされても、読みたかった。珍しいもの見たさもあったと思う。ただわたしは、理由もよく分らないまま高揚した気分で庄衛門さまに接していた。
「そうですか」
 庄衛門さまはわらわなかった。わたしはそれが嬉しかった。頬がぽっと熱を持つ。きっと赤くなっているのだろうけれど、鏡がないのでわたしには確かめられない。
「……行ってらっしゃい。楽しみにしていたのでしょう」
 庄衛門さまはまた書き物に戻った。まだ斜めに差す光が、庄衛門さまの首筋にやわらかく影を落とす。走りだしたわたしが蹴った砂だけど動的だった。
 
 今日きた本は流行りのうたの本だ。俳諧というらしい。
 障子の閉まる音を聞きながら、通りを駆けた。だいぶ早くなったお日さまがわたしの後ろに影をつくる。
「これ、朝から騒々しいねお前は」
 長屋からひょいと顔を出した大家さんが笑う。
「はい」
 桶を抱えて挨拶すれば、大家さんは呆れたような困ったような顔をした。
「転ぶんじゃないよ」
「はい」
 それじゃ、と止めていた足を動かせば、背中に大家さんの苦笑いが聞こえた。すぐにわたしの足音が覆ってしまったけれど。
 
 わたしの草鞋は小気味よく地を弾いた。潮の浸みついたざらついた地面はわたしの肌によく馴染んで、だけど庄衛門さまにはどうなのだろう。昨夜差し込みを訴えたときの庄衛門さまはひどく所在なさげだった。旅人の不安を、わたしは知らない。老人の不安を、わたしは知らない。寄る辺なさそうに泳ぐ目線はわたしに悲愴を呼ばなかったが、それがわたしの無知によるのか、彼の心持によるのか判断することはできなかった。
 
 水を汲み上げ、もと来た道を帰る。庄衛門さまの部屋は障子を閉めてあり、中の様子は窺えない。向こうに人がいる気配の感ぜられただけで、声や物音はしなかった。土間に水を置き、くるりとからだを反転。と、思い出して首だけ奥に向け直す。
「本、来よるばって。見てくっと」
 なかば叫ぶように言い捨てて駆け出した。案の定、隣から冷やかす声が飛んだけれど構わない。だって、やっと本が読めるのだ。庄衛門さまは馬鹿にしなかったのだ。わたしの両足が、朝よりはしゃいだ音で土を弾く。なぜだか、庄衛門さまはきっと本を気に入ると思った。
 
 刷られた文字は遠巻きでは判別できなくて、わたしは結局最後までまってようやく読ませてもらえた。半笑いの男どもの好奇の視線は面白くなかったから、わたしは頬を膨らませながら紙束を手に取った。表紙を開くと、うねる文字列が飛び込んでくる。
 
 わたしは、呼吸を忘れた。
 
 気がつくと、村長に本を貸してくれるようお願いしていた。周囲の野次馬が面白がって一緒に頼んだ。
「貸してやってくれねえか」
「いま取り上げれば泣きよるぞ」
「俺はあとからでもよか、餓鬼ィ苛める趣味はなかと」
 からかいの声でも、今のわたしは助かった。無心で頭を下げていた。短い影が顔の下で黒々としていた。 
 
 からすの澄んだ声が響いた。今朝方の影法師は点を越え、とうに東へ伸びていた。 最後まで繰った手をそのまま頭上へ。伸びをすればぽきぽきと節が音を立てた。慣れていないから時間はかかったし肩も凝ったけれど、それだけでない気持ち良い疲れがわたしを満たしている。
 読むという事は幸せだ。それが見聞録であろうと剣術指南書であろうとわたしは喜んだ。そこに文字があるという事実が、わたしの胸の裏をこそばゆく撫ぜてゆく。風本に揚がる四季の魚より、行商人の見せる上方の反物より、ずっとずっと色鮮やかな墨。とりどりの言葉が大好きだった。
 
 でも、それは今日まで。今日、この本を読むまでだった。
 
 他の何とも違う何かが襲った。十七音の魔法はわたしを捕らえて、世界を変えてしまった。撫ぜるのではなく、確実に質量をもった言葉がわたしの胸を染め、満たし、溢れていった。風雅はすべてだった。わたしが好いた文字の数々など比ぶべくもない。
 手の甲に雫が落ちてはじめて自分が泣いていることに気づき、あわてて大切な本を遠ざけた。居ても立ってもいられず、草鞋をつっかける。いつのまにか沈みかけていた日が海を朱色に染め、辺りには夜の匂いが迫っていた。
 
 その人は縁に出ていた。
「庄衛門さま」
 知らず駆け寄ると、庄衛門さまがゆっくりとこちらを向いた。
「こんばんは」
 僅かに空気が動いた。可須村は灯りも少なく、はっきり見えなかった。でもその薄暗がりの中でその目尻が光った気がして、お身体は平気なのですか、と訊こうとした言葉は消えてしまった。
「……こんばんは、あの」
 わたしの言葉が切れたのは、庄衛門さまのかさついてひび割れた唇からうたが漏れたからだ。それはさっきまでわたしを震わせていた、その俳諧であった。
「お気に召しましたか」
 庄衛門さまの声は掠れているのに凛としていた。
「あ……はい」
 わたしは間の抜けた声で答える。正直なところ、会話の仕方など忘れていた。惚けたようなわたしを見て、庄衛門さまがくすりと肩を揺らした。初めて知る、少年っぽい笑い方だった。
「それは良かった。ここにもひとり、騒客が」
「え?」
よく聞き取れずに聞き返した。だけど彼は小さく口角を上げるだけだった。代わりと言うように新しい言葉が紡がれた。
「良い、空ですね」
 はじめのように顔をあげ、もう暗い空を見つめる。
「ここまで来ることができて、本当に嬉しい」
 
 地方巡検が遊山と違うことくらい、お上の仕事に疎いわたしだって庄衛門さまと一緒にやってきたお侍さまの疲れた様子を見れば分かった。だから、庄衛門さまの言葉は不思議に思えた。まるで、風雅を求めてやってきたみたいではないか。
「そら、ですか」
 つられて見上げる。わたしにとっては見慣れた、いつもと変わらないものに見える。お江戸の空とは違うのだろうが、わたしには分らない。ええ、と静かなこたえが返ってきた。せんせいに、と彼がつぶやく。
「この空は見られなかったのですから」
 壱岐。最果ての空です、とささやいた声は辛うじてわたしに届くくらいの小ささだった。もしかしたらわたしにではなく、空を見られなかった「せんせい」に向かって言ったのかも知れない。
 
 澄んだ夜が、海を越えてずっと向こうまで続いていた。
「むかしむかしから、こうして仰がれてきたのです。」
 名も分からぬ防人たち、蒙古を迎え撃った兵士たち。阿倍仲麻呂、顕悦和尚、小野篁、鑑真和上。彼らが見上げた空なのです、と。ほとんど自分に言うみたいだった。わたしは庄衛門さまの鋭利な理由を見た気がした。空をみる彼はお侍さまではなかった。
 
 しばらく間があって、庄衛門さまは小さな咳を一つした。わたしはその音で急に現実に戻る。
「ここは冷えます、戻られた方がよかと思います」
 いまさら、ここへ来たときに言いかけた言葉を掛ける。お客人に風邪など引かせる訳にもいかないから、少し焦った。そんなわたしの様子を見て、庄衛門さまはおかしそうに笑った。
「もう五月だというのに、随分南にやってきというのに。やはり夜は寒いものですね」
 戻りましょうか、と庄衛門さまはわたしの手をとった。骨ばった老人の手なのに力は衰えていなくて、まるで青年のそれだった。彼は何か宝物を持つように、わたしの手をきゅっと握ったのだ。
 遅くなってしまいました。そう言って庄衛門さまは済まなそうな顔をした。きっと親御さんは心配しているでしょう、と。
「お詫びに何かお手伝いしましょう」
「そんな、お客人に仕事など任せられんですよ」
「では、そうですね……」
 庄衛門さまは左手を顎にあてて考える仕草。少しあってぽんと手を打つと懐から何かを取り出した。宵闇の中でぼんやりと白いそれをよく見れば、古い本であった。
「差し上げます」
 明かりが足りなくて詳しい内容は分らなかったが、どうやら筆で直接書かれているようだ。わたしが右手に持つ木版刷りの流通本とは明らかに違う。
「こんな大層なもん、悪かです」
 わたしはぶんぶんと首を振った。
「良いんです。受け取って下さい」
「ばってん」
 そこまで言ったところで、遠く母の呼ぶ声がした。戻らないわたしを探しに来たのだろう。
「ほら、呼んでいますよ。大事にして下さいね」
 あの空と、この本と、それから親御さんを。微笑んだ庄衛門さまが、わたしの背中をそっと押した。二人のときに感じた不思議な若さはなく、孫娘を送り出す祖父のようにあたたかい手のひらだった。
 
 次の日、わたしは庄衛門さまに会えなかった。中藤さんが難しい顔をして、岩波殿にわたしに会うような暇はないのだと言った。その次の日も、そのまた次の日も「岩波殿はお忙しくいらっしゃるのだ」の一点張り。庄衛門さま以外のお侍さまが風本を発っても、中藤さんの家の一室は閉ざされたままだった。
 でも、わたしは見た。夕方、庄衛門さまの部屋の中で影が動いていた。咎めるような声が、微かに障子を越えて聞こえてきた。
「障りますから」
 それは間違いなく中藤さんのものだった。
「大丈夫です。開けて下さい」
「岩波殿……」
「空を、見せて下さい」
「なりません」
 あとは咽返る声で言葉は聞こえなくなってしまった。
 わたしは小さく息を吐いた。息を吐いて、上を見た。滲むように色を変えつつある空が、高く広がっていた。
 壱岐の空を胸に吸い込んだ。それは抱いた本から聞こえる庄衛門さまの声と混ざってわたしの中を色付けた。
 
 庄衛門さまが俳諧師で、俳号を曾良(そら)といったと知ったのは、彼が二度と空を見上げなくなってからだった。貰った本は大変に貴重なものらしく、函に入れて大切に保管するよう勧められた。だけどわたしは断った。
 
 わたしの「せんせい」には、空を見ていて欲しいから。



 

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Attention-Deficit Disorderという診断名は仰々しい気がするのだけれど
メチルフェニデート塩酸塩という薬名と釣り合いは取れているとも思う。
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